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エネルギーも非中央…

株式会社 sonraku 井筒 耕平さん

巨大物流会社で感じた違和感。「環境を守る」より 「社会の作り直し」をしたくなった。

 北海道の大学・大学院で水産学を学んだ後、物流の会社に就職して感じた違和感をきっかけに、 27 歳で名古屋の大学 院に入学。持続可能なエネルギーについて学んだ後は、導かれるように岡山にたどり着いた。

 学生時代、バックパッカーをしていた経験から、「国際関係の仕事がしたい」と思って、院卒で物流系の企業に就職しました。けれど働く中で、部長になり課長になり … とこの会社での人生が見えちゃったんですよね。会社を辞めようと思って、海や山で遊ぶのも好きだったから、環境保護の仕事をすることも考えました。でも、環境保護の一方で、物流業のような経済活動も存在している。守る方だけではなく、経済活動 1 つ 1 つを組み替えることで持続型社会をつくりたいと思ったんです。 それで地元の大学院で「持続可能な社会をつくる」というテーマでバイオマスの勉強をしました。

 大学院時代にある地域のエネルギー関連の調査をし、「人口1400人の村が、年間 4 億円をかけてエネルギーを買っている」という事実に驚愕。その村は、ほとんど自力でビジネスをしていないにも関わらず、エネルギーに莫大なお金を使っている。これは持続可能なモデルじゃないなと。昔は地域で水力発電や林業でエネルギーを自給していたんです。 エネルギーの生産者側だった地域が消費者側になってしまい、エネルギーを交付金で購入する、という過程を知り、限界が来てると感じたんです。

 その後、エネルギーを研究する東京のNPO法人で働き始めました。ここでは知事や国会議員と話したり、国際会議もしたりと、刺激的な毎日でした。 ただ、政策決定したところで実際に実践するのは地方です。もう少し地方でやってみたいなと感じ始めた頃に、そのNPOが岡山県備前市でビジネスを立ち上げることになりまして。移住した後、より現場を知るために美作市の地域おこし協力隊として働きました。

西粟倉村のC材(低質材)を燃料に。やってよかったと思いつつ、 課題は残る。

 村内で間伐された木材のなかには、そのままでは木材として利用できない「C材」と呼ばれる低質材が豊富にある。遠くで生まれるエネルギーにお金を払い、近くで生まれるC材を安く手放している村の状況に井筒さんは目を付けた。

 地域おこし協力隊の任期が終わり、再生エネルギーの導入コンサルティングをしていたご縁で2014年に西粟倉に来ました。以来、西粟倉の C 材を薪として燃焼させ、日帰り温泉施設や宿泊施設で使う、バイオマス事業を 3 年やっています。うちが運営させていただいている「あわくら温泉 元湯」でも、薪ボイラーを使用して温泉を沸かしています。カフェ機能もあるためか、最近は、移住者の独身男子が元湯の常連として増えてきているように感じますね。スタッフたちが楽しそうに働いているのを見ると、事業を始めてみてよかったなあと思います。

 ただ、厳しいことが三つあります。一つ目は収支。林業を支えるためのバイオマスなので、仕入れが高く売値が安い。バイオマス事業は基本的に赤字なんです。その代わり視察の人も来て宿泊されるので、集客の役割は果たしているとは思いますが。

 二つ目が冬。雪が降ると薪が湿って全然燃えなくて。そういうときは施設のインフラとしては厳しいです。

 三つ目が人材。若い人は成長実感が欲しいだろうから、ただひたすら薪を割ってもらうのは厳しいかなと 思っています。実際、薪割りを安定的に担ってくれているのはかなりの割合で高齢者。

 この三つの厳しさを踏まえると、事業は地域の課題・社会的課題からやらないで、楽しいことからやった方がいいよなーって思います。

地方分権・持続可能な 地域を増やしたい 自分の実践を他の地域でも活かして

 大学院を二つ卒業した井筒さんは、実践者でありながら研究者としての意識も持ち続けている。西粟倉で実践と研究を繰り返してきたことで見えてきた、「地域の持続可能な仕組みの在り 方」を他の地域に広げたいのだと話す。

 日本中がもっと地方分権化して、持続可能な地域がたくさん育っている、という状態にしたいですし、そういうことを伝えていきたい。現状、コンサルさせてもらっているところが 6 地域くらいありますが、研究・提案をするコンサルで終わるのではなく、実践に繋げたいと思っています。  

実践する意味というのは、お金と人をダイレクトに感じられる手触り感なんだと思います。研究だけだと実際にお金を動かしていない。実践していると、お金も動くし一緒に動く人の気持ちもどんどん変化していくので、考えることが出てくる。それって、やってみないと決して分からないことだから。

 僕は他の人がやってないことをやりたい。西粟倉はもう僕がやらなくてもやる人がたくさん集まっているので、いいなと思っています。これからも西粟倉にも関わりながら、もっとプレイヤーを探している他の地域 にも関わっていきたい。そういう地域の人が一歩でも前に踏み出せるよ うに、西粟倉の接続可能な村としてのノウハウを活かしていければと思っています。そして、実践したことをコンセプトやメタレベルに持っていって、他の地域の参考になるように、ちゃんと語れるようにしたいと思っています。

 今は神戸在住です。関西拠点に、新たな、誰も僕のことを知らない人間関係の中で、新しいチャレンジをしていきたいですね

株式会社 sonraku HP:https://www.sonraku.ninja

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

「漆」×「雅楽」は…

粟倉漆器尾崎漆工房 尾崎正道さん

職人が少ないジャンルながら、工夫次第で幅が広がる仕事として「漆」を選んだ

造園業やNGOの仕事で海外を点々としながら自分に何がで きるかを模索していた尾崎さん。
33 歳で帰国したときに改めて自分と向き合い、海外に日本の伝統文化を伝えられるものづくりに 携わっていきたいんだと気づいたという。

昔から好きだったものづくりで何をしていこうかと迷ったんですが、例えば陶芸だと日本中にやっている人がいる。そうじゃなくて、職人が少なくなっている業界のほうがいいなと感じたんです。さらにその製品だけを作るより、工夫次第で仕事の幅が広がるような仕事がしたいなと。もの作りが好きだからこそ、いろんなものが作れるような技術を習得したくて、漆を選びました。
食べていくのは難しいだろうけど、ここで妥協してしまったら、2度と挑戦できる機会はないかもしれないと思って。それで石川の輪島漆芸技術研修所に入り、漆塗りを学びました。

途中、研修所で働いているボイラー技師の方と仲良くなったんですが、彼は実はろくろを回す木地師でもあったんです。それで夕方や休みの日に頼み込んで木工を習い、練習としてお椀とか茶道具を作ったりして木工の技術も身につけていきました。

研修所を出てからは町の輪島塗の工房に入り、しばらくほぼ無給で働きながら漆の技術を学んでいました。本当はすぐにでも独立して自分のものを作る工房をやりたかったけれど、お客さんもついてないし、蓄えもない。それで工房で働きながらバイトもしつつ、夜や休みの日に食器なんかの作品を地道にコツコツと作り続けていました。いざ独立した時に、何を作っていいかわからない、見本もない、では話にならないからね。

そろそろと思っていた頃に、知人に西粟倉の古民家を紹介してもらって、そこが工房も持てる広さがあったこともあり、移住を決めました。

雅楽のできる漆職人
2つの特技が唯一無二の武器に

雅楽の楽器を作れる人間は現在日本に数えるほどしかいないという。一方で、お寺の法要や神社のお祭りといった伝統行事で、雅楽の楽器をメンテナンスできる人材のニーズは確かにある。
尾崎さんの勝算はそこにあった。

1つのことをできる人というのはそれなりにいるかもしれないけれど、今の時代その1つの専門性だけでは難しい。でも2つの特技を持っているというのは、場合によっては唯一無二の武器が生まれる可能性があるんですね。斜陽と言われる産業の中で、食べていけるか考えた時に、ただ漆が塗れるというだけの人だとゆくゆく廃業になりかねない。

それで僕がもう1つ漆にプラスアルファしたのがたまたま雅楽だったんです。

僕の育ってきた環境では、子どもの頃から雅楽が身近にありました。高校では雅楽部に入り、篳篥(ひちりき、雅楽で使う管楽器)を担当していた。卒業後も結婚式などで篳篥を演奏するというバイトをやっていて。昔から、雅楽ができればいつか何か役に立つだろう、とは思ってはいたんです。

雅楽の楽器を修理するとき、大部分は漆塗りの作業になるんですが、楽器師の人は楽器を作れるけど、漆のプロではないんです。そうなった時に、漆について広範囲の知識がないと、修理が適切にできない。

でも、僕は漆の技術を専門的に持っていて、どんな状態のものでも対応できるし、その中で一番時間がかからず一番綺麗に仕上がる手段を選び抜いてできるんです。

結果、その強みを活かして、現在の収入の8〜9割は雅楽の道具関連となっています。

幅の広さで選んだ漆の仕事突き詰めることで、自分にしかできない仕事に

雅楽は千三百年、漆は九千年以上前から続く伝統文化。根拠なく「やらなかったら後悔するだろう」と感じて漆の道から入った尾崎さんだったが、2つの伝統を過去から未来に繋ぐことができる貴重な人材になりつつある。

元々、笙(しょう、雅楽で使う笛)というのは分業で作られている側面があって、僕も分業で仕事をもらっているんですが、今後はイチから竹を切って、乾燥させて、加工して楽器自体を作る、というところまでやろうかと考えていて。やっぱり自分で作ることでより深い部分を知って、その世界観を追求したい、という想いがあります。

僕は雅楽と漆というのは絶対なくならないと思っているので、必ず自分の仕事として生き残っていけると思っています。初めに、漆はいろんなことができるから漆を選んだと言いました。他にできる人が日本中探してもいくらもいないという仕事を突き詰めて、中途半端なことをすることなく専門分野を深めるほど、自分自身の仕事は確立されてくるんじゃないかなあと思っているんです。 今はその過程で、それを一生かかってどこまで深められるかは分からないですけど、死ぬまで追い求めていくものなんだろうなと。若い頃は好奇心が強かったので、結構色々なことをやってみたかったけれど、今となっては他にないというか、これしかなかったなと思っています。

雅楽は1000年以上も前から伝わってきたもの。それは、実はすごいことなんですよね。漆も縄文時代から使われてきたものです。それらがいつか使われなくなり、終わってしまう日が来るかもしれないけれど、前の時代から次の時代に伝える歯車の1つになってみるのもいいかなと思っています。

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

自分が楽しむことで…

ソメヤスズキ 鈴木菜々子さん

人が布をまとう事、素材への関心。西粟倉で仕事にする環境が整ってきた。

 鈴木菜々子さんは東京生まれ、東京育ち。自然豊かというほどではないものの、多摩川のほとりで四季を感じながら育った。美大卒で植物好きの父親が、草花の名前をたくさん教えてくれたおかげで、植物との距離は近かった。

 私はファッションが好きで、高校の服飾部ではショーを開催するような子でした。でも、シーズンごとに流行を追うアパレル商品といったものよりは、色や人が布を纏うといったことに興味がありましたね。素材や布自体に興味が向かい、美大でテキスタイルを専攻していました。自分で織ったり染めたり、色の微妙な差、素材感、シルクや綿などの使う素材そのものに関心があって。草木染めと出会ったのは学生結婚して子どもを産んだころです。自然のものだけで色が染まるということにとても感動しました。それでも子育てもあり自分の興味があることで就職できるか、仕事になるか、ということまでは考えられませんでした。子どもを産んで食や暮らしへの意識の変化が起こり、選ぶものが自然のものに切り替わっていくなかで、東京から離れようと決めたんですが、直後に震災が起こり、西粟倉へ移住しました。

 西粟倉では西原さん(フレル食堂店主)が、独立を考えていて「食堂をやりたい」と言われていた時期でした。個人で起業するということが身近に感じられ、一緒にやってみようかということに。難波邸(岡山県美作市)で、西原さんは食堂、私は工房。ワークショップや展示会、販売もできる場所との出会いにより、それまでは趣味でやっていたことが、服をつくるプロジェクトの中で、デザイナーと働いたり縫製を外注したりと、製造の仕方が変わってきました。好きなことを「仕事にできるかな」という気持ちになってきたんです。

大量生産・大量流通の世界ではマイナス。でも、だから良いと言うお客さんがいる。

草木染めは既存の市場や流通の枠組みの中では商品として扱いづらい。しかし西粟倉の自然や、お客様と触れ合うなかで、草木染めをする環境、モノと人が出会う環境が整ってきていると鈴木さんは感じている。

 私が草木染めをしているのは、環境や持続可能性とか地域資源といった理由ではなく、染める工程だったり、出る色だったりが純粋に好きだから。あとは「草木染めが仕事になる」ということを子どもや次の世代に残したいという気持ちもあります。

 ただ草木染めって本当に手間がかかるんです。狙った草木を採れるいいタイミングは限られているし、育てるにしても 1 人でできる量は限られているとか。染料を買うにしても何をするにしても、商品開発にすごくコストと時間がかかるんですね。さらに商品は褪色もするし、同じものはたくさん作れない。となると結局、経年変化の検証もしないまま販売店預けてお任せします、というのは通用しない商品です。でも、使い込んだものは染め直しもできるし、見方を変えればそれは付加価値になる。商品自体のデザインももちろん大事なんですけど、自分で商品を作ってお客さんに渡るまでの「流れ」もきちんとデザインすれば、仕事にすることはできるんだと思っています。

  4 年半やって、大量流通から見たらマイナスポイントでも、だからこそ「良し」としてくれるお客さんは確実にいることがわかってきたんです。そういうお客さんに向けて私は作っていけばいいんだと感じ始めているところです。

花の名を知り、親しみを持つ 。そんなきっかけを作り出したい。

少し前まで、作品と商品の違いに囚われて悩んだこともあった鈴木さん。今はアートでも工業的な商品でもなく、自分の手仕事を通してメッセージを伝えられる商品にすればいい、と感じられるようになってきたという。

 自分が作ったものを介して『人』が向こう側に見えてきているので、それはすごく楽しいですね。一緒に仕事をする人も、見てくれる人も、買ってくれる人も。「自分が作ったものを通して」というのはやっぱり嬉しいです。仕事の先に 「人」が見えないことって昔はいっぱいありましたが、自分が本当に良いと思えるもの、好きなもので人とつながれるというのは、たまらない体験です。

 「きれい」とか「美しい」というのは絶対的なものではなく、相手の状況や精神状態にもよると思うので、「これ、美しいでしょう」という押し付けはしたくない。私の仕事の仕方や、染めた色、作ったもの、言葉なんかがきっかけで、誰かがこれまで気づかなかったきれいなものに気づけるとか、子どもを可愛いと思えるとか、ご飯を美味しく思えるとか、そういった状態になれる環境や時間を提供していきたいです。

 例えば、ワークショップをしている時、私が父親にしてもらったように花の名前を教えてあげると、皆さんすごく良い顔をして帰ります。いつも通る道にその花があることに気づくこと、そして親近感を持つような感覚、そういう状態を、自分が関わることで作り出せるようになりたいなと思っています。

ソメヤスズキ HP:https://someyasuzuki.com/

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

平日は神戸、週末は…

特定非営利活動法人 芝桜 喫茶サーナの家 井上 早苗さん

サーナを始めたきっかけは、1994年の震災でした

井上さんは西粟倉村生まれ。高校を卒業するとき田舎を出て手に職を付けたいと考え、神戸で歯科衛生士専門学校に入学。歯科衛生を通して障がい者に積極的に関わってきたが、息子が阪神大震災を機に精神疾患を患ってしまう。

 私は 18 歳で家を出て、歯科衛生士の資格を取りました。大阪の矯正専門の先生のところや専門学校で働き、同時に障がい者の方や兵庫県の在宅寝たきりの方への歯科保健指導をしていました。

 神戸に 42 年間住んでいたんですが 定年退職し、地元である西粟倉に戻 ろうかと考えた時に、NPO法人 芝桜を立ち上げました。この法人は、障がい者、高齢者を対象に、交流、学習、ものづくり、憩い、娯楽など、福祉に関する事業を提供して、障がい者の社会参加や地域の活性化を目的としています。自分がここに戻ることを考えた時に、何か村のために貢献できないか、と考えたのが発端でした。このNPOの拠点兼地域に開いた喫茶が、この『サーナの家』 なんです。

でも実は、ここは週末だけの営業 にしています。私たち家族は神戸にいた時に、阪神・淡路大震災で被災したのですが、三人いる子どものうち一人が精神疾患を患ってしまって。なので、平日は息子の病院がある神戸で過ごし、週末だけここに来るという生活を 5 年間続けています。

 この場所を立ち上げる動機には、神戸の震災も関係しています。その時の体験は本当に悲惨で。自宅は全壊して、小学校の体育館に 4ヶ月ぐ らいいたかな。ご遺体がいっぱいあって、線香がいっぱいあって・・・。そんな中、私は歯科の教員をしてたから、学生を預かっていて、震災は 1 月で、国家試験は 2 月だから大変だった。あの当時の家族に会いに行くと、その 当時はなんともなかったように見えた生徒が精神疾患を患っていて。私の息子と同じです。  

 そんな大変な体験もあって、息子も含め、障がいを持った方のためにも、ここを始めたんです。

この自然豊かな西粟倉を いろんな人に見て欲しい

 息子の体調が良くなり、いつか自立できる日が来たら、自然に癒されながら社会生活できる場を用意しておきたいと考え、サーナの家を運営する井上さん。西粟倉で父親が生前に集めた地元のスギやヒノキを主体にした、癒しの空間をつくっている。

 サーナの家のポイントは、「癒しの空間の提供」です。村には喫茶店が少なくて、大体の家は三世代が住んでいるので、なかなかくつろげる場所がないんです。お嫁さんはお姑さんの前で息抜きできなかったりするでしょ ?特に狭い村のなかじゃなおさら。だから、肩肘張らずにゆっくりくつろげる家族的な雰囲気のお店にしました。

 お客さんは地元の人以外にも、観光客や大茅スキー場に来た人、Facebook を見ていらっしゃる人もいます。他にも大きな規模のサイクリングイベントが毎年7月にあって、村内外からたくさんの人が参加します。サーナの家の前もコースになっていて選手が自転車で走るので、猪カレーでおもてなししています。そうやって、喫茶に来る人以外にも、地域のイベントなどに関わって、サーナの家としてできることを自分のできる範囲でやっています。

 私はこの村を出て 42 年間も神戸にいたけれど、この歳になってここに戻ってきて、この自然豊かな田舎をいろんな人に見て欲しいなって思っていて。なので、神戸から友だちを呼んだり、老人会を呼んだり、都会の子どもたちには、お芋掘り体験や、落花生の収穫など … 、そういった、ここでしかできない体験を提供してあげたい。そのために横にある畑を一生懸命耕したりしています。今後、永続的に西粟倉に帰ってくるとしたら、畑で獲れた野菜を使ったモーニングにもこだわりたいんですよね。

立派じゃなくてもいい。 自分がやれることをやれる範囲でやっていきたい

 42年ぶりの地元・西粟倉へのUターン。昔からの先祖をはじめ、両親や自分がお世話になった恩返しを、と考える井上さん。サーナの家を通してやりたいことが、人手が足りないと思うほど溢れ 出てきている。

 サーナの家がオープンして 5 周年記念で、部屋をつくることを考えています。一泊朝食付ぐらいで、泊まれるような宿舎があれば、お墓参りに帰ってくる人たちが少し休憩したり、泊まれる場所を提供できると思うんです。

 他にも、西粟倉は自然の観光スポットが豊かなので、若杉原生林や、ダルガ峰など、何日か滞在しながらゆっくり見て回れるための場所にしたり、地域の人に着物の着付けを教えてあげたり、ヨガをしたり、そういう使い方もできるかな。健康面で言えば、 歯科関係の仕事を活かして、虫歯にならないためにどんな食べ物がいいか、 何に気をつけたらいいか、といったことも伝えていけるかなと思っています。

 そうやって、ここを中心に人が集まってきて、コンセプトどおり、雑多な暮らしを忘れて、この場所で癒されてほしい。そしてゆくゆくは、西粟倉がみんなのふるさとのようになればいいなと思います。

 西粟倉は本当に自然が豊かなので、自然のパワーがもらえる環境があって、人との関わりがあるような地域ができていけば、人間が本来大事にしていることを体感できる場所になるかなって。そうすれば、息子が回復してここに戻ってきたときに、暮らしやすい環境ができているんじゃ ないかな。

 いつまでたっても情熱をもってやれたらいいなと思います。立派じゃな くても、細々とでいいから、地域の役割を担いながら、自分がやれることをやれる範囲でやっていきたいなと思います。

特定非営利活動法人 芝桜 喫茶サーナの家 HP:https://sanae6885.wixsite.com/sa-nanoie

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

グラフィックデザイ…

関野意匠室+絡繰堂 関野倫宏さん

デザイナーとして働きつつも、頭の片隅には玩具のことがあった。

武蔵野美術大学を卒業後、岡山のデザイン事務所で 3年、情報出版社で9年。その後、現代玩具博物館に勤めてきた関野さん。その経歴は、「玩具を作りたい」という想いから始まり、辿りついたものだった。

 僕は元々、幾何学形態や立体造形などの美しさや動きが、たまらなく好きなんですよね。玩具を作りたいという気持ちも大学に入る前からあったんですが、玩具職人にはどうやったらなれるのかがわからなかった。じゃあとりあえず、大学でグラフィックデザインを学ぼうと。手に職つければ仕事にもなるし、独立してもやっていけるだろうし、色々なスキルを身につけることで玩具も作れるようになるんじゃないかと思っ てね。

 卒業後はデザイナーとして、 12 年間雑誌や名刺、Webなどを作っていました。人が欲しいものを形にする仕事の面白さもあるんだけど、自分が作りたいものをイチから作る… ということをやっぱりやりたいなあと。それで現代玩具博物館(岡山県美作市)に「玩具作家になる修行をしたいんです」と言って応募して、働かせてもらうことになりました。そこでは木工室があって、自分の作りたいものに没頭することができるというのが志望動機でした。

 館長の西田さんという方が、その辺にあるようなものを適当に加工して面白い玩具を作っちゃうようなすごい方だったんです。けれど、それまで誰もそれを図面に残せていなかった。それでデザイナー経験のある僕が図面に起こさせてもらい、西田ファンの大人向けの木工教室をやったりしていましたね。

 図面を任されることで、木工の面白さとか玩具の仕組みにますますのめり込み、ここで玩具の知識と、木工のスキルを身につけさせてもらい、オリジナルキットの開発をしていました。

思い入れに応えたものづくり お客さんに泣いて喜ばれることも

 2011年に西粟倉で木工作家として独立した関野さん。しかし自分の作りたいものだけでは軌道に乗らず、苦しい状況のなか試行錯誤が続く。ピンチを救ったのは、お客さんの強い思い入れを受け止めた商品だった。

 博物館での修業は 3 年と決めてて、修行の終わり頃に妻と出会って結婚しました。牧さんに誘われて西粟倉・森の学校さんの立ち上げに半年ほどグラフィックデザイナーとして参加した後は、ようびさんと場所をシェアして、からくり玩具ばかり作り続けて、2 年後くらいに西粟倉に移住・独立しました。

 独立後もからくり玩具を試行錯誤しながら作りつつ、展覧会やクラフト展したり、ネット販売もしてたんですがなかなか売れず。貯金がどんどん減って苦しい時期がしばらく続きました。そのうち、じわじわとオンラインで「ペットの振り子時計」が売れ始めて、経営は安定しましたね。
 ペットの振り子時計は、亡くなった猫や犬 … といった、めちゃくちゃ思い入れの強い注文を細かく受けてひとつずつ作るんですけど、出来上がると「あの子が帰ってきた」といって感動して泣かれることもあるんです。 デザイナー時代の「ありがとう。いいのできたわ」というレベルとは違う。お客さんとディープな接点のある仕事だなと。日本も含め、香港・タイ・カナダ・スペインといった世界中から何百件の注文を受けてやってるうちに、人とのコミュニケーションが苦手な僕でも、この仕事が社会と深くに 繋がる重要なきっかけになっていると感じます。

これまでやってきたことが繋がっている実感  やり方にこだわらず仲間を増やしていきたい

 自分が作りたいものをイチから作りたいと思って 12 年のキャリアを転向させ、木工に没頭してきた関野さん。売れ筋がお客さんの強い思い入れでオーダーメイドされる商品であることの捉え方と、これからを聞いた。

 「自分のものづくりがしたい」という作家的な気持ちで食べていけるならいいですけど、夢だけでは生きていけない。自分がやりたいことの核は持ちつつ、心を落ち着けられる環境をつくるという意味で、食べていくということはすごく重要。自分の作りたいものと、お客さんの欲しいもののバランスを考えながらやっていくのが大切かなと思っています。

 その意味では、グラフィックデザインをやっていた 12 年間に培われたスキルと、その後に身につけた木工スキルの集大成として今があり、やりたいことと、喜んでもらえることがバランスよく仕事になっていると感じます。 設計・デザインすること、イラスト描くこと、図面展開、そして木工、みたいな総合的な作業でね。

 今後は岡山での足を使った営業もしていって、地盤ができれば、積木とかからくりも売れてくれるんじゃな いかなと思っています。そういうしつこさが大事ですね。

 とはいえ道具と材料があればどこでも仕事ができるので、これからはどこか移動しながら働くか、冬だけ台湾とか海外に移住するのもありかもしれないです。「ペットの振り子時計」も振り子のデザインだけを他のイラストレーターさんに提供してもらうとかそういうこともできるし、そうなったら面白いかもしれません。(ただいま、 3 作家様とのコラボ・デザインもラインナップしています。)

関野意匠室+絡繰堂 HP:https://sdratm.jimdo.com/

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

地域に眠る可能性。…

株式会社 西粟倉・森の学校 門倉忍さん

 電子部品メーカーで働いていた門倉さんは、 50 歳過ぎで中国に赴任。そこでの仕事は大量消費・大量生産の世界で「利益のために、 渇ききった雑巾を絞るような仕事」だと感じ、日本の田舎でできる仕事を探し始めた。

未経験者だけで始まった、木材加工業

  「家族のために」と慌ただしく働き時間が過ぎてゆき、子どもの成人をきっかけに人生や仕事を改めて考えてみたら、働けるのはあと 10 年くらいだと。これからの 10 年、このままでいいのか。自分がやりがいを持てること、もう少し社会にとってよいことをしたい、という思いがありました。それで日本の過疎地でできる仕事を探していたんです。そのなかで僕の経験が活かせそうな「生産管理」の募集をしていたのが西粟倉でした。

 でもいざ工場に来てみたら、間伐材を使って割り箸をつくると言われていたのに、廃墟みたいなところで製造機械もなければ作り方も誰も知らない。それで日本中飛び回って、吉野の箸作りをしているところに何十回も通って、門外不出のつくり方を伝授してもらったり、製造機械を開発したりしてもがいていました。ところが準備が整ってきた頃に、採算が合わないってことがわかってきて、泣く泣く 1 年で事業縮小しました。

 割り箸のラインを縮小して他の製品の木材加工に人を回すとなると、これが少し厄介。というのも、森の学校は木材の利用だけでなく、地域に雇用を生み出すことも期待されていたから、小さい子どものお母さんといった女性たちがパートで割り箸の検品をしていたんですね。他の製品ラインでも、均一の安定した品質を保ちつつ、パートタイムで働く女性も安心・安全に物を作れる設備を開発する必要が出てきたんです。そこで前の職場で培った生産管理の経験を生かして、女性が安全に関われる製造工程を少しずつ実現してきました。

女性に配慮した職場づくりが 品質を高め、 お客さんの満足につながる

 女性に配慮した木材の生産管理とはどんなことかでいうと、例えばうちのある工程までは男性ばかりなんですが、ある工程からは女性になっています。製材したての木材は、重さの 50 %が水分だから、乾いてきて重さが概ね半分になる頃には女性でも運べるようになるんですね。

 女性は言いたいことを溜めすぎて離職することが多いので、毎日繰り返す単純作業をどれだけ楽にできるか、常に気にしています。作業スペースの広さや高さ、モノの置き方、明るさ。あとは休憩室やトイレの清潔さや、気持ちの引き締まる制服。長く働いてもらうために良い環境を作ることは、間違いなくモチベーションが上がり、事故は減り、生産性は上がり、笑顔も増えてく。

 そうやって女性が気持ちよく働けて、活躍もできる環境を整えられれば、パートタイムでもお互い無理なく働けるでしょ ? そしたら、子どもが小さいときは遠くに働きに行かなくて済むし、他の地域から「小さい子どもがいるんですけどここなら働けそうです」と選んでもらえるようにも なる。

 品質の管理、安全衛生上の管理を両輪に、常にお客さんの要望にオールマイティに丁寧に答え続け て、喜んでもらう。ここに来て 8 年ですが、素晴らしい仕事に関わってるな、ここに来て良かったんだなって思います

働く人が安心できる 環境づくりを 西粟倉から全国へ広げたい

 森の学校の工場は、 20 年近く廃墟状態だったアルバムメーカーの工場を借り受け、 8年かけて門倉さんたちが整備してきた。残るは事務所の改築という状態になった今、賃借料 10 年分で購入させてほしいと交渉したという。

 これまで賃貸で使っていた工場を去年、売ってもらいました。収益とか利益ばかりに注目するんじゃなくて、そこで働く人たちの生活を見守って、その地域の産業として継続できる状 態にしたいから。

 働く人にお給料やボーナスを払って、社会保険も整備して、安心して暮らせるっていう環境をこの西粟倉で作る。そういう環境をつくるのが企業の使命だと思うし、そこに関われ ていることが誇らしいと思ってます。業界としては厳しいんで、めちゃくちゃ儲かる仕事ではないけど、どうせだったら笑顔でやり続けられて、喜んでもらえることをめざしていけるといいね、って話しています。

 そして、国産材のうねりを起こすには西粟倉だけ良くてもダメで、全国で取り組まないといけないとも思っています。それは西粟倉と同じやり方じゃなくていい。地域ごとの特色 とか、考え方、作るものに合わせて アレンジし、買ってもらえる商品、買ってくれた人が喜んでもらえるような商品にすれば、事業は継続できるし、地方でも人が増えると思います。  うちの代表の牧が全国にコンサル行っているのはそのためです。盛り上がる地域を増やして、他の地域とも同じような考え方で仕事ができるようになればと、そう願っています。もちろん簡単なことではないけど、絶対うまくいくと思うんだよね。根拠 はないけど(笑)

西粟倉・森の学校 HP:https://morinogakko.jp/

写真:MOROCOSHI(https://morocoshi.com/) 

一歩進みたいと感じ…

株式会社ミュウ 小林祐太さん / 細谷由梨奈さん

西粟倉村出身のパティシエの小林祐太さんと、縁もゆかりもない村に移住した細谷由梨奈さん。背景は異なる二人ですが、「今の状態から一歩進みたい」とそれぞれのタイミングで感じ、行動し、現在に至ります。ここ西粟倉で、こだわりの苺のお菓子をたくさんの人に届けるべく日々邁進するお二人に、これまでのことと今感じていることを伺いました。

大学を辞めようと思うほど夢中になった、お菓子づくりとの出会い

– 小林さんがパティシエになったきっかけを改めて聞かせていただけますか。

(過去記事:帰ってきたパティシエ 〜理想を追い求めたらUターンだった〜)

小林:

大学1年生の時に、たまたまバイト先にケーキ屋さんを選んだことですね。ケーキには興味なかったですし、お菓子づくりをやりたかったわけでもないんですけど。ただ昔から料理をするのは好きだったので、どうせなら飲食関係がいいかなあと思ってなんとなく選んだだけだったんです。

大学1年生の時に、たまたまバイト先にケーキ屋さんを選んだことですね。ケーキには興味なかったですし、お菓子づくりをやりたかったわけでもないんですけど。ただ昔から料理をするのは好きだったので、どうせなら飲食関係がいいかなあと思ってなんとなく選んだだけだったんです。

でもいざバイトを始めてみるとめちゃくちゃ面白くて、どんどんのめり込んでいきました。もっとお菓子の勉強がしたくて、早々に大学を辞めてお菓子の道に進もうと本気で思ったんですが、親に猛反対をされてしまって。大学はひとまず4年間通いましたが、その間もお菓子づくりの専門書をひたすら買いあさっていましたね。卒業と同時にそのバイト先に入社して、より実践的な技術を学んでいきました。

– その後もいろいろなお店で経験を積まれたんですよね。

そうですね。最初のケーキ屋さんは実家から通いながら3年くらい働いて、そこから岡山市内のホテルに転職をしました。大型のウエディングケーキや皿盛りのデザートなど、田舎の小さな個人店では出来ないような経験をしたいなと思っていました。

その後も姫路や和歌山へお菓子づくりの研修に行ったり、最初に勤めていたケーキ屋さんが2号店を出すタイミングでまたそっちに戻ったり。様々な環境に身を置いて経験と技術を蓄積していく時期でした。

思いがけず訪れた、地元でパティシエとして働くチャンス

– 各地で経験を積む中、西粟倉に戻ってくることを決めたのはどういうタイミングだったんでしょうか。

パティシエとしてのキャリアも10年を超えてきて、次はどうしようかと考えていた時にthrough meの記事をたまたま見たんです。京都で行列が出来るようなお菓子のお店が、西粟倉で製造拠点を開きますっていう内容で、ビビッときましたね。よし、帰ろう!と。

それがもし、よその地域だったら絶対に「ふ〜ん」で終わってたと思うんです。地元だということと、その時の自分の状況と、やりたい仕事とが全部ハマったのかなって。

そこからすぐメゾン・ド・フルージュの渡部さんに繋いでもらって、京都で面接を受けました。急な転職であまり準備期間がなかったのでとにかくバタバタしましたけど、迷いはなかったですね。

2017年の春に入社し、西粟倉工房で製造から出荷まで自分一人でスタートしました。パートさんにも来てもらっていましたが、回していくのに必死。場を任せてもらってやりがいも大きかったですが、入ってからの1年はとにかくやるしかない、という感じで本当にあっと言う間でした。

このままじゃいけないと思った時、改めて見えてきた「地域」というキーワード

– 工房開設から1年が経った頃、細谷さんがローカルライフラボ(以下、LLL)の研究生として西粟倉村に移住されましたね。まずはその決断に至るまでのことを聞かせていただけますか。

細谷:

大学で工学部を専攻し建築関係の勉強をしていました。

一方で大学の勉強とは別に、まちづくりや地域づくりに関する活動を1年生の頃から大学の外でやってたんです。それが本当に楽しすぎて!ろくに就活もしていなかったので、就職先は先生に紹介してもらった広島の設備設計の会社にそのまま入社しました。

広島に勤めて2年が経った頃、東京オリンピックの開催が決まった関係で東京の部署へ異動になったんです。一級建築士の資格取得の勉強と並行して業務をしていたこともあって、ただでさえ忙しい毎日だったんですが、同じ部署の先輩の一人が急に会社を辞めてしまって。抱える仕事が一気に増え、睡眠時間もろくに取れず、体調を崩してしまいました。

今の仕事は好きだけど、このままじゃいけない。転職しよう、仕事を変えよう、働く環境を変えようと思って。そこで良くある転職サイトを見てみたものの、条件の羅列だけに感じてしまっていまいちしっくりこない…意識高そうな若手セミナーやイベントにも色々行ったりもしていましたが完全に迷子状態でした。

そんな時、友人に「こういうの好きなんじゃないの?」ってLLLの説明会に誘ってもらったんです。大学時代からの仲で、過去に私が「地域」というキーワードで楽しく活動していたのを知っていたので。

地域で働くのに、「特別」である必要はない

– 西粟倉のことはそれまで知らなかったのに、移住しようと思えたのは何が決め手だったんでしょうか。

田舎で働くには何か飛び抜けたものがないといけないイメージがありました。何かが猛烈に好きだったり、強烈な動機づけがあったり。そういうのがないとダメなんだって。

でもその時のLLLのイベントの中で、「私を使って欲しいですって売り込みに行くのでもいいんですよ」っていう話があって。あ、それでもいいのかって、自分の中にあった地方で働くことに対する高い壁が下がったんです。それで応募しました。

なので本当に、何したいとか何しようとかも全くない状態で西粟倉に来ましたね。

2018年の4月にLLLの研究生として村に来て、村内の色々な事業所を回ってお話を聞かせてもらう機会がありました。たまたま渡部さんもその回の一人で、苺への愛を語るキラキラオーラにすごく惹かれたんです。加えてとびきり美味しい苺を食べさせてもらったものだから、完全に心を奪われてしまって。こんなにも味の濃い美味しい苺というのをそれまで食べたことがなかったから。

そこで渡部さんにお願いをして、研修というかたちで働かせてもらえることになりました。小林さんが入社して約1年経った頃ですね。

– お菓子工房というこれまでと全く異なる分野で働くことになったわけですが、工房ではどういった業務を担当されているんでしょうか。

事前に役割が用意されているのではなく、出来ることから始めていく感じでしたね。そもそも私にはお菓子が作れないのにいいのかな、と思っていたんですが、最初はお中元の発送の管理や簡単な経理からやらせてもらっていました。

前職でも自分が部下を持って仕事をするようになってから、人がやっていることや今あるやり方を、より上手くいくにはどうすればいいだろうって考えることが好きだし興味がありました。工房での総務経理業務やプロジェクト管理業務などを通して、建築設備設計の経験で培った「組み立てる」スキルを少しは活かせているかなと思っています。LLLの1年間の活動期間を終えて、今年の春からは「企業研修型の地域おこし協力隊」として、引き続きここで働かせてもらっています。

– 最後に、今感じていることやこれからの目標を聞かせてもらえますか。

小林:

自分の中で西粟倉に帰ってくるということが、これまでの自分の集大成というか、一つの区切りとして感じている部分はあります。外でいろんな経験や学びを得て帰ってきた今の自分の姿を、ここでのお菓子づくりを通して、親や地元の皆に披露じゃないけど見てもらって、食べてもらって、何より喜んでもらえたらいいなと思ってやっています。

あと、僕は長男なので、家に残らないといけないなっていうのが頭の中になんとなくずっとあって。親にどうのこうの言われたわけでは全くないんですけどね。よくある「地元を出たい!」みたいな感情もこれまで特に抱いたことはないですし、西粟倉のことはそもそも好きなんだと思います。

これからももちろん技術を身につけることに対しては日々努力が必要だし、もっと勉強していきますが、最近こちらの工房に配属になった後輩のパティシエに対しても自分が15年やってきた経験や技術を伝えていきたいです。

細谷:

私の仕事内容はサポートの部分が主なので、メインである製造部門が滞りなく仕事ができるような、ある意味空気みたいな働きをしたいなと思っています。私もまだまだ失敗が多いのでなかなか空気にはなれていないんですけど…(笑)

本店の京都とのやり取りや百貨店とのやり取りなど、間に入ることも多いので、繋いでいる立場として現場がスムーズに回るように仕事が出来ればいいなって思っています。1年間の流れを一回り経験してだいぶ内容がわかって来たので、見えてきた課題の解決はもちろん、良いところは更に伸ばしていけるような提案や業務設計をしていきたいなと思っています。

渡部さんや小林さん、他のスタッフと、そして自分自身のために、周囲を笑顔にする楽しい環境づくりを目指していきます。

– パティシエとしての更なる経験と挑戦の場として、西粟倉に帰ることを選んだ小林さん。もう一度人生を見直そうとこの地に飛び込み、自分が出来ることを見つけて一歩ずつ前進してきた細谷さん。そんな二人が想いを込めて一つひとつ丁寧に仕上げ、届ける苺のお菓子は、美味しさの奥にきっと優しい味わいがするはずです。

暮らしのそばに「美…

ablabo. 蔦木由佳さん

西粟倉村で「ablabo.」として油の製造・販売を行う蔦木由佳さん。数々の困難や挫折を乗り越え、正式創業から3年が経った今も、溢れんばかりの油への愛は今も変わらずむしろ深みを増してきています。彼女が様々なアプローチで丁寧に伝え続けている「美味しい油がある暮らしの豊かさ」。今だからこそ見えてきたこの先の未来像を伺いました。

料理の楽しさに改めて気づかせてくれた油との出会い

– どうして「油」で起業をしようと思ったのか改めて聞かせてもらえますか。

一番の理由は、ただただ油が美味しかったから。

もともと食べ物にまつわる仕事をずっとしたかったんです。飲食店なのかもしれないし、そうじゃないかたちかもしれないしっていうのをふんわりと思っていて。

そんな中、縁あって西粟倉にやってきて、当時勤めていた西粟倉・森の学校でカフェの運営を任せてもらえることになったんです。ずっとやりたかった食べ物に関する仕事で嬉しいはずが、いざやってみると全然楽しくなくて。しんどかった。自分の料理がそんなに美味しいとも思えなくなってくるし、料理を作ってその対価としてお金をいただくという行為自体に全く喜びを感じなかったんです。日々のメニュー作りも、料理をすること自体にも違和感というか楽しみを見つけられないでいました。結局そのカフェも半年少しくらいで閉めることになって、やりたかったはずの食べ物に関する仕事なのに、全然できないな、なんか違うなとモヤモヤしていました。

ちょうどその時期に友人と小豆島に旅行に行く機会があって、たまたま搾りたてのオリーブオイルを味見させてもらったんです。それが本っっ当に美味しくてびっくりして。油にも鮮度があって、油に「味がある」っていうことを初めて認識した瞬間でした。早速そのオイルを買って帰って家で料理をしてみたら、自分の料理が美味しくなった気がしたんです。それでまた、やっぱり料理って楽しいなって思い直すことができました。

そこから油の世界にどんどんのめり込んでいきましたね。食べ物で何か仕事をしたいと模索する中で突如現れた「油」というキーワードが自分の中でハマった気がして、「油屋になろう」と決意しました。

「美味しい油」を手触りをもって伝えていくこと

– 今のablabo.が特に力を注いでいることは何でしょうか。

油屋をやっていくにあたって、最初は小売店や卸屋さんのようにいい油を集めたセレクトショップのような業態をイメージしていました。それが、昔ながらの製法でたった一人で油を絞っている90歳のおじいさんに出会ったことをきっかけに、そもそもいい油をつくる人がこの先いなくなっちゃうのかもしれないと気づいたんです。その方に弟子入りをして搾油の技術を学び、油の製造から販売までを行う今のかたちになりました。

「作って売る」がablabo.における一本の筋で、油の研究も好きだしスタッフが入ってくれたこともあって製造における大きな困りごとってなかったんです。ただ……思ったほど油が売れなくて……。自分はすごく油が好きで「こんな美味しい油できたら売れるに決まってるじゃん!」って思うのに、そんなに簡単にはいかないというか。「油が美味しい」という言葉がそもそもそんなに通じないわけです。

油を売る前に、「美味しい油」ってこういう味や香りがするんだよとか、こういう風に使うといいっていうことをもっと発信していかないと、誰も買ってくれないし誰も楽しめないんだということに気がつきました。そこからはイベントをすることが増えて、油の勉強会をしたりお客さんと一緒に油を絞るワークショップをしたり、私がおすすめの油の使い方を見せながら料理を作り、みんなで食べる会を開催したりしました。実際に油の使い方をその場で見せて味わってもらうとお客さんの目の色もすごく変わるし、「自分でもできるかも」って思って手に取ってもらえることがすごく増えました。地道ですけど今はそうやって対面で一人でも多くの方に油のことを知ってもらうことが大切だと思っています。私もそれが楽しいし、喜びなので(笑)。

料理を優しく下支えしてくれる油という名脇役

– ablabo.の油の良さや他との違いって何でしょうか。

よくある油って基本的には大量生産大量流通しなくてはいけないものだから、味の均一化が求められます。味のばらつきはむしろクレームになってしまう。

一方でablabo.の油は農家さんから種を仕入れて焙煎して圧力をかけて種を絞るという、ジュースに近いようなつくり方をしています。そうすると原材料によって味が変わることがままあるわけで、その点はワインの世界とよく似ているんです。今年の原材料の出来がこんなのだったから今年のワインはこういう味になりましたっていうのが、油の世界でも本当は同じようにある。小さい油屋だから出来ることでもあると思うんですが、今年はこういう美味しさっていうのをあえて作るようにしています。そういう風にして出来上がる油は滋味深くて、噛めば噛むほど美味しいんです。

一口食べてパッと油の存在に気づくほどの主張はないけれど、料理の美味しさをしっかりと下支えしてくれていて、一口また一口と箸を進めるほどにしみじみ美味しい。

うちの油に限らず、薬品を使わずに手絞りされた油のいいところだと思います。

なんでablabo.の油なのってなったときに、無農薬の原材料を使ってるとか、抽出に薬品を使ってないとか、地域で作ってるものだからとか、いろんな要素があるにはあるんですが、

何より「心に響く美味しさ」みたいなものを表現できるのは、原料を大事にしてしっかり作っている油屋さんだなと思うから。そういう違いを楽しんで欲しいなと思っています。

暮らしのそばに「美味しい油」がある未来

– 最後に、今後の展望を聞かせてもらえますか。

いちメーカーとして、美味しいものを作り続けることはもちろん大前提だし、もっともっといろんな人にablabo.の油を使って欲しいと思っています。

加えてうちだからこそできることかもしれないなって思っていることが一つあります。農家さんに持ち込んでもらった種を絞ってオリジナルの油としてお返しするOEM的な受け入れを始めたんです。これが思いの外多くて、繁忙期は1日2交代制で絞らなくちゃいけないくらいいろんな人がいろんなものを持ってきてくれて。西粟倉やその近隣地域って油の産地でもなんでもないし、そんなに目立った農業地帯というわけでもないのに油を絞って欲しいっていう需要がこんなにあるのかと正直驚きました。

油は鮮度が命ですから、絞ってからなるべく時間が経たずに食べた方がいい。全国からいろんな種をablabo.が取り寄せて絞って返すっていうよりは、いろんな地域に小さな油屋さんがたくさんあった方がその地域のためになるなと強く思っていて。

共同精米所みたいな感じで地域で使える搾油所があって、そこにいろんな人が種を持ち込んで、今年の自分の油はこんな味だって楽しんでもらえる。そんな拠点が全国に増えたらいいなと本気で考えています。うちもやりたいって言う人がいたら技術提供も無料でしたいと思っています。

一企業としてもちろんもっと稼いでいかなきゃいけないし、さらに質の高い油を作っていかないといけない。けどもっと広い目で見た油の未来のためにablabo.の枠を越えた活動も実現していきたいと思っています。もちろん一人じゃ出来ないので、油屋のネットワークをもっと繋げていって仲間を増やしていきたい。それがablabo.としての使命でもあるし、油が大好きな私の望む未来でもあるんだろうと思います。

その一瞬を狙い撃つ…

猟師 白畠正宏さん/羽田知弘さん

面積の約93%が山林の西粟倉村。杉や檜が所狭しと立ち並ぶ森の中にはたくさんの生き物たちが暮らしています。

1,500人に満たないこの村の人口よりも鹿の数の方が多いと言われているだけに、耳を澄ませば鹿の鳴き声がどこからか聴こえ、真っ暗な夜道を車で走行していると鹿と遭遇し危うくぶつかりそうになることもしばしばです。食べ物を求めて動物たちが山の麓へ降りてきているんですね。

そんな自然豊かな西粟倉村では、村の猟師さんたちと連携し、野山を駆け回った野生の鹿のお肉を「森のジビエ」と名付けて、全国にお届けしています。

全国の各地域には狩猟者が集まる民間団体として「猟友会(りょうゆうかい)」と呼ばれる会員組織があります。今回は村内のベテランハンターの一人、西粟倉村猟友会の会長 白畠正宏さん(76歳)にお話を伺いました。

その一瞬を狙い撃つ、狩猟の楽しみ

– 白畠さんは狩猟をいつ頃始められたのでしょうか。

白畠:狩猟免許を取ったのは昭和42年、24歳やな。ただ、それまでも山に行きよったでな。隣のおじさんにくっついて連れて行ってもらったり。その頃は「わな猟」なんてやってなかったで鉄砲ばっかり。西粟倉だけでも37人は銃の免許を持っとる人がおったと思うわ。わなでやりだしたんは、20年ほど前からじゃで、歴史は浅い。

近所はもちろん親戚にも猟師が何人かいたこともあって、山に入って猟をする事は好きじゃったな。僕らが最初狩猟を始めた頃なんて、この辺は鹿なんて一匹もおらなんだ。イノシシはおったけどな。その頃はイノシシ、野うさぎ、ヤマドリ。その3つくらいが主な狩猟鳥獣じゃったな。全部鉄砲で。

僕が最初にやり出したのはヤマドリとかキジ。

飼っとった猟犬を連れて、朝会社に行くまでにちょこちょこっと山行ったり、会社終わってからも日没までの間に行ったり。

山の野いちごを鳥が食べるんや、その辺を歩いて回ると、犬は鼻が利くでな、50m手前くらいから鳥の匂いがわかるで、そろそろ、そろそろと鳥に近づいて行くんや。10mぐらい前まで近づいたら犬がピタッと止まるんや。その間にハンターが鉄砲を持って行って、一番打ちやすい場所はこっち側がええかこっち側がええか思って狙って。ここがええなと思って決めたら、犬に「いけ」いう合図をして、犬がバッ!と鳥に向けて飛び込む。そしたら鳥がブワッ!と飛び立つ。その時を狙ってバン!と打つ。面白いで〜。

– お話を聞いているだけで楽しさが伝わってきます。確かに鉄砲で狙い撃つ時の「獲った!」という感覚は面白く感じそうですね。その点、わな猟は地味なので。笑

的中率は50%くらいかな。鉄砲の射撃の腕もじゃし、犬の良し悪しもあるし。血統の良い犬を探してきたら、あんまりトレーニングせんでも本能でいきよる。それを20年くらいはしたかな。猟犬もウサギを獲る用の犬だったりを2匹飼って。それが終わった頃から鹿が増えだして。異常に増えだしたな。ぐぐぐっと。

その頃からわな猟を始めたんじゃ。

– 鹿のお肉を食べたりは?

鹿なんか食べれるもんじゃ思うてなかった。目の前におっても獲ろうともしてなかったなあ。イノシシのグループ猟を会社を辞めた60歳から始めたんや。それまでは会社員しながらじゃから、一人でできる鳥やウサギの猟。少しずつ鹿も出るようになったけど、鹿は撃たんかった。

趣味としての狩猟と、自衛のための狩猟と

僕らが狩猟したのは好きなことが一番と、イノシシとシカの農作物の被害が出だしたと。

もちろん自分の田んぼもあるし山もあるんで、それの被害を守るためにやったというのと、2つの目的があったわけ。好きな趣味と、自衛のためと。

山際の田んぼはイノシシの被害が軒並みやった。鹿は庭の花や植木なんかも何でも食べよるで。

こんだけ鹿がいっぱいいっぱい増えてきたら、昔の人ばっかりではなかなか捕獲の数が伸びんけども、最近は若い人が入ってきてくれて、おかげさんでいっときの倍くらいの捕獲数になったからな。みんなのおかげやと思うわ。

– 西粟倉村では地元の人だけでなく、20代30代の若い移住者の狩猟者も年々増えてきていますよね。ジビエ料理を専門としたレストランや、食肉の通販、鹿の革を使った鞄作りなど、地域の中で狩猟のその先の循環が生まれていることがすごく良いことだなと思います。

村内では白畠さんのような銃を持った古くからのベテラン猟師さんの他に、副業として狩猟を行なっている若い人の存在も増えてきました。

続いては、そのうちの一人である移住者の羽田知弘さん(29歳)にお話を伺いました。村内企業の「株式会社 西粟倉・森の学校」で営業マンとして働く傍ら、どのように猟をされているのでしょうか。

自分で獲った肉を自分で食べるという憧れ

– 狩猟を始めたきっかけはどのようなものだったんでしょうか。

村に来た時に住み始めたシェアハウスがあって、そこで同居していたメンバーが狩猟免許を持っていて、おもしろそうだなって。自分で獲った肉を自分で捌くってかっこいいなって。

自分で肉を獲るっていうことは尊いなと思っていたので。外国産のブロイラーを買って食べるだけじゃなくて、自分で山に行って獣を獲って、それを捌いて食うっていうのは憧れている世界観に近かったです。

自分の父親が愛知県の奥三河っていう西粟倉よりももっと田舎の出身だったので、じいちゃんや父さんを見てて自然の中でどうサバイブするかみたいなことに漠然と憧れがありましたね。だから猟を始めたし、畑をやったりするのもそういうところが影響していると思います。

– 羽田さんはわな猟専門の猟師さんだと思いますが、フルタイムの会社員をしながら生活の中で猟の時間をどのように取っているか聞かせてもらえますか。

最低週8時間は狩猟に費やそうと決めていて、平日5日は出勤前やお昼休みや夕方にちらっとわな場を見て、微調整や確認作業をする。土日のどちらかで3時間は山に入って新たにわなをかけ直す。そのやり方で平均したら猟期は週に1匹獲っていました。ちゃんと数にこだわろうとしたのはこの1年くらいなのでまだまだ試行錯誤の最中です。

副業でやっているから楽しいというのはは大いにありますね。これをメインの仕事にする気はなくて。狩猟は自分が考えて動いた分だけ結果が出るので、労働集約的だけどPDCAがめちゃくちゃ回転するから面白いです。そういうのが毎日わなを周るたびにわかるので。

– 獣害がひどいから喜ばれるっていうのもありますよね。近所の方からも「困ってるからたくさん獲ってね!」と言われたり。

近所のおばあちゃん達も鹿を獲ったらめちゃくちゃ喜んでくれるけど、でも僕は獣害の被害のためにやっているとは思っていなくて。そんなのおこがましいから、僕は自分のために鹿を獲って、お金を稼いで、肉を食べているだけなんだ、と思ってやっています。

ジビエを使って様々な料理にチャレンジする楽しみ

– 状態の良い鹿は止め刺しと血抜き後、エーゼロ株式会社が運営する獣肉処理施設に持って行かれているそうですが、食肉にするにあたって猟の段階で気をつけていることはありますか。

自分も頻繁に自宅でジビエ料理を食べるので、いかに状態良く捕獲をするかはわなをかける段階から意識していますね。後ろ脚にはモモ肉など大きい部位があるので、前脚にわなが掛かるように工夫したり。わなに掛かった鹿にあまりストレスをかけたくないので、朝見回りに行くのもそのためです。

– 羽田さんおすすめの食べ方はありますか。

鹿肉は鉄分が多くて脂肪分が少ないから、火を通しすぎると硬くなってしまうんです。ジップロックに入れて湯煎して低温調理するやり方はしっとりしてローストビーフみたいになるのでオススメです。おもてなしの一品にも良い。手間ですが鹿ジャーキーもつまみには最高のアテでしたよ!手軽で美味しいのは、薄く切った鹿カツがオススメですね。

知り合いがやっている東京のイタリアンビストロで西粟倉の鹿肉を使ってくれていたりするのも嬉しいですね。肉そのものの状態はもちろん、調理法でも美味しさは格段に変わります。ジビエが初めての人にも、過去に食べて苦手だった人にも、美味しい!と思ってもらいたいです。

副業としての楽しみと、食を通しての楽しみ。ライフスタイルの中に狩猟を上手く組み込んで、山間地域ならではの充実した日々を送っている羽田さんの様子が印象的でした。

美味しい、楽しい暮…

農家 建元明子さん

こんにちは!エーゼロ(株)の岡野です。廃校でうなぎや野菜を育てながら、未来の里山をつくりたいと思っています。

今日は、農産友の会の中心人物だった建元明子さんのお話を伺いにきました。ポカポカ陽気の中、軽快なステップで何かを踏みつけている明子さんを発見。何をされているのでしょうか?

「黒豆大豆っていうんじゃでな。こうするとすぐ出るんじゃ。」

へえ、踏んでも潰れないんですね。

「家族で食べて、残りは道の駅あわくらんどに出すんじゃ。秋口に枝豆で食べても最高だで。ブリっと大きくて、コクがあるんじゃ。」

ビールと一緒に食べたいですね。

そうだ、今日はお話を録音させて下さい。西粟倉の自然から美味しさを取り出せる明子さんのノウハウを記録したいんです。

「ふふふ、どがしなんだもんが、恥ずかしいが。」

「時代が変わったでな。今はもうな、若い人はほんまに作るって事を知らない。千円も出したらなんぼでもあるがな、海外からでもどっからでも。真空品や缶詰がいくらもあるがな。私らは昔の人間なので、豆を育てて水炊きして使うんだで。」

あちらの畑の作物もお豆ですか?葛みたいに見えますが?

「あれはナタマメの木じゃよ。採ったものを干してあるから、見してあげらあ。」

うわっ、大きい豆ですね!皮を剥いて食べるんですか?

「あのなあ、ナタマメ茶にするんじゃよ。皮も豆もまるごと摺るんじゃよ。大根おろしみたいにズズーと摺って、紙の上で乾かすんじゃ。10月から年の暮れまで、この縁側でずうっと干しとる。」

「ちょっと色がでて、ちょっと甘味があって、何にも臭いはねえ。飲みやすいんで。鼻がすうっと良くなるんじゃ。鼻が詰まったり、グシュグシュする人も良くなる。私も一年中飲んどる。」

「道の駅に出すと、すぐに全部売れてしまう。葉っぱも茎も、丸ごとお茶にして下さいって言われるんじゃ。すぐに売れちゃうんじゃが、孫にあげる分はとってあるんじゃ。」

お孫さんが羨ましいです。

「種を分けてあげるので、育ててみんしゃい。3月に植えるんだよ。」

おぉ。嬉しいです。ありがとうございます!明子さんは色々な農産物について、どうやって学ばれたんですか?

「農産加工友の会ちゅうのがあってな、道上さんから声をかけて頂いて、友達3人とやっとたんじゃ。道上さんには本当にようしてもらった。美味しいこんにゃくや豆腐を作ろう!って言って、広島とか遠いところに行って良く勉強したんじゃ。しそ入りのおかきを作って岡山市まで売りにいっとったな。1月、2月の寒い時期には、米麹で味噌を作ってな。この地域一帯の味噌を作っとったんじゃ。友達と皆で楽しかったよ。」

「みんな施設に入ったり、あっちの世界に行ってしまったけど、私は元気。みんなのお陰でとても楽しかったし、みんなのお陰で今も私は幸せじゃよ。良い人生。これからは若い人達の時代じゃよ。あんた達がようやれたらいいなと皆言うとるよ。」

ありがとうございます!でも、これからも色々教えて頂きたいです。

「もう少し若ければ、同じメンバーでやるんじゃけどな。あんたらもお互い仲良く頑張るんじゃよ。」

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